しんと静まり返った冷たい空気が、体温を容赦なく奪っていく。
後でつらくなると分かってはいても、その静謐を肺に入れ循環させる行為に躊躇いはなかった。

「さっむ〜!いくらなんでもバイヤーでしょこの寒さ!」

声でも出さないとやっていられないという気持ちは理解できた。
私は趣味のようなものでここにいるけれど、ゲンはモコモコ襟のコートの上に更に長いマフラーまでぐるぐる巻いた出で立ちで先程からずっと足踏みをしている。

「戻ったら?風邪引いちゃう」

この寒い中、付き合ってもらっているようで申し訳ない。私の提案にううんと首を横に振って、ゲンは再びマフラーに顔を埋めた。どうやらこのまま残るつもりらしい。

「冬のね、匂いが好きなんだ」

春夏秋冬、外に出ればそれぞれ違った匂いがふと鼻を掠める。その中でも特に、真冬の夜の澄みきった空気が好きだった。

「前から思ってたけどさ。名前ちゃんって鼻、良いよね。この前も予備の薪に火がついちゃってるのすぐ気付いてたし」
「いやいや、それ分かんないと命に関わるからね ……」
「火事になんなくて良かった、ジーマーで」

良い匂いのするものが好きだ。たぶん、大体の生物がそうだと思う。
大好きだった石鹸や香水の匂い、花の香り、食欲を唆る食べ物の匂い。何千年も眠っている間に全部失われてしまった。だけど、この空気の匂いだけはどれだけ時間が経ってもそのままだった。

「ずっと好きだったものが殆どなくなっちゃったからさ、たまに自分がなんなのか分かんなくなるんだ」

私は今どこにいて、何をしているのか。そもそも自分が何者なのか。ゲンみたいにずば抜けて得意なものがある訳じゃない。自分を自分たらしめるものが何もない。文明を失って文字通り身一つになってしまった私には、何も。

「……まあでも、生きてるから生きていかなきゃならないし。それに最近はご飯も毎日美味しいし」
「そこはねフランソワちゃん様様よね〜」

パズルのピースが埋まっていくように、この世界にも少しずつものが増えて、少しずつ満たされていく。
もう一度大きく息を吸うと、体が素直に反応して背中が粟立つ。本格的に寒くなってきた。何より、隣で手を擦り合わせているゲンが気の毒だ。マジシャンの手にしもやけでもできたら困ってしまう。

「ねえねえ知ってる?体の部位で一番冷えるのって耳なんだって」
「耳……確かにそうかも」

だとしたら今もほぼ耳丸出しなゲンは、それはもう大変なことになってるに違いない。戻ったら二人して仲良く頭痛でダウンなんて、嫌な予感がした。

「ゲン、こんな時間までごめんね。付け焼き刃みたいなもんだけど、ちょっとじっとしてて」

ポッケに入れていた両手を出して、ゲンの両耳に当てる。ポッケには温めた石を布に包んで入れていて、これは私でもなんとか用意できる大昔のカイロだ。この温石のおかげで少しの間、私の両手は凍てつく空気の中でも最強というわけだ。

「あったかい?」

想像してたとおりゲンの耳は冷えきっていて、この熱を保てるうちになんとかと思いながら彼の耳殻を包んだり揉んだりを繰り返していた。
ゲンがお喋りな口を閉じて私に身を委ねてくれたのが少し意外だった。お礼とお詫びにしては大胆過ぎたかもしれない。内心引かれていたらどうしようと募る不安が、彼に触れ続けている手を僅かに湿らせた。

「うん、寧ろあったかいすら通り越して来たかも。……だからマフラーあげちゃう」
「えっ!悪いよそんな」
「良いから良いから。あ、手はそのままで大丈夫よ」

耳に手を当てられながらも器用にマフラーを解いたゲンと目が合う。彼の瞳の中に星くずが瞬いたような気がして、思わず下を向いた。

「おっきいでしょコレ。色々使えて助かっちゃう」

両腕を首の後ろに回されて、長いマフラーが自分に巻きつけられていくのをぼんやりと眺めていた。

「……あれ」

目の前の不自然に伸び上がったマフラーは、そのままゲンに繋がっている。いつの間にやらゲンと私は二人で一つのマフラーを共有する状態になっていた。犯人はもちろん、マフラーを解いて巻いたゲンに他ならない。

「あとはこうして……っと」

私の両耳にも手が添えられて、私たちは完全にお揃いになってしまった。

「手、つらくない?」
「大丈夫」

マフラーを巻いたからかもしれないけど、ゲンが少し屈んでくれているおかげで体勢はつらくない。ただ、単純にお互いの距離が近いというのが心臓に悪かった。
耳全体を覆われているせいか、すぐ近くで籠もったような音がする。息を吸うと、大好きな空気の匂いと一緒に胸の奥底が温まるような安心する香りがした。

「私、ゲンの匂い好きだなぁ」

マフラーに吸い込まれてしまいそうなほど小さな声だったと思うけど、ゲンには届いてしまったらしい。
そのまま風が通る隙間もないくらいにくっつかれて、ゲンの両腕が私の耳から後頭部と背中に回っていく。一瞬、私の両手は行き場を失ってしまったけれど、再び同じ場所に落ち着いた。そこが一番冷えるって、彼が教えてくれたから。



2021.12.15


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